京劇名人俳優/青衣・花旦
陳徳霖(1862-1930)
名を鈞璋、字を麓畊、号を漱雲(一説では痩雲)、小さい頃の名を石頭。原籍は山東黄県。北京生まれ。
十二歳の時に全福昆曲科班で昆劇の旦を学び、芸名を金翠と言った。のちに四箴堂科班に入って程章圃に刀馬旦を学び、朱蓮芬と朱洪福から昆劇の芝居を学ぶ。卒業後三慶班に入り、田宝琳から皮黄の青衣を学ぶ。名票友の孫春山から唱を学び、時小福と余紫雲の影響を受け、梅巧玲からも直接学んだ。譚鑫培、孫菊仙、兪菊笙、劉鴻声、王楞仙、楊小楼、梅蘭芳、余叔岩、高慶奎らと共演した。梅蘭芳、王蕙芳、姜妙香、王琴儂、姚玉芙が弟子入りしている。
王瑶卿(1881-1954)
本名を瑞臻、字を稚庭、号を菊痴。祖籍は江蘇清江。北京生まれ。昆劇俳優・王絢雲の長男。
九歳のときに田宝琳から芝居を学ぶ。三慶班で崇富貴について練習を積み、のちに謝双寿に拝師。張zhi[くさかんむり+止]quan[くさかんむり+全]、杜蝶雲から青衣と刀馬旦の芝居を学ぶ。十九歳のときに福寿班で公演をし、時小福、李紫珊(万盞灯)、陳徳霖などから指導を受ける。二十三歳のときに昇平署の学外民籍学生に選ばれ、宮廷でも公演をするようになる。1906年に同慶班に入り、譚鑫培と共演を重ねる。1909年に自ら劇団を結成し丹桂園で次々と新作を公演する。今まで老生が主流だった京劇の舞台は様相を変え、「王派」を確立する。四十六歳のときにノドを痛めて舞台を離れてから、戯曲教育に力を入れるようになる。梅蘭芳、程硯秋、尚小雲、荀慧生、芙蓉草(趙桐珊)、筱翠花(于連泉)、栄蝶仙、徐碧雲、朱琴心などが指導を受けている。
馮子和(1888-1941)
本名を旭初、字を春航。江蘇呉県人。父・馮三喜は四喜班に所属していた。
幼い頃より父から青衣、花旦を学ぶ。九歳のときに上海の夏家班に入り、夏月珊に拝師。青衣の芝居は時小福、花旦の芝居は路三宝の演じ方をもととする。容貌が上海の有名な青衣俳優・常子和に似ていたので「小子和」の名前で舞台に登る。“春航義務学校”を立ち上げて趙桐珊、周五宝、王霊珠、李少棠など五十人余りの学生を擁した。
欧陽予倩(1889-1961)
本名を欧陽立袁、号を南傑、芸名を蓮笙、蘭客、ペンネームを春柳、桃花不疑庵主。湖南瀏陽人。
1902年に日本にわたり、成城中学、明治大学、早稲田大学文学科で勉強する。1907年に「春柳社」に参加。李息霜、曾孝谷、陸鏡若らと東京で話劇(現代演劇)「黒奴吁天禄」(アンクル・トムの小屋)を公演。後に上海で「新劇同志会」を結成して話劇の公演を重ねて、中国における話劇の土台を築く先駆者となる。1914年から京劇の新作を手がけるようになる。陳祥雲、林紹琴、克秀山、李紫仙、周福喜らから京劇の青衣、花旦、刀馬旦の芝居を学ぶ。薛瑶卿から昆劇の芝居を学ぶ。「新舞台」に参加して夏月恒、夏月珊、夏月潤、潘月樵、馮子和、毛韵珂らと共演する。田漢と共に戯曲改革を提唱して積極的に取り組んだ。京劇を基礎に南北各派の芸風を融合させ、大胆な改革を行って戯曲界に大きな影響を与えた。
梅蘭芳(1894-1961)
名を瀾、字を[田+腕]華。原籍は江蘇泰州、北京生まれ。祖父・梅巧玲(1842-1882)は「同光十三絶」のひとりで有名な旦。父の梅竹芬(1874-1879)も旦を演じていたが早逝した。伯父の梅雨田(1865-1912)は有名な琴師。
九歳のときに姉の夫・朱小芬の家で芝居を学び、呉菱仙から最初に指導を受けた。十一歳のときに初舞台を踏み、十四歳の時に喜連成科班に入る。1913年に王風卿に随って初めて上海へ行って公演し、好評を博す。翊文社、双慶社、喜群社、崇林等班で譚鑫培、陳徳霖、楊小楼、銭金福、余叔岩、言菊朋、王長林らと共演する。最初の頃は青衣の芝居が主であったが、のちに花旦、刀馬旦の芝居も習って公演するようになった。舞台のヘアメイクや衣装に大胆な改革をし、新しい舞踊を作り出し、旦角の新しい表現を創っていった。1919年と1924年に日本、1930年にアメリカ、1935年にはソビエト連邦(現在のロシア)など海外公演を行い、世界的な芸術家としての名声を得る。門下には李世芳、言慧珠、杜近芳、顧正秋、息子の梅葆玖などがいる。
趙君玉(1894-1944)
名を雲麟。原籍は安徽、上海生まれ。武生・趙小廉の子。
最初は浄を学んでいたが、のちに武生を学び、小生になってから君玉に名を変える。長い間、馮子和と共演する小生であった。後に旦角になってから頭角をあらわすようになる。譚鑫培や梅蘭芳とも共演して名を広めた。南派旦角の代表である馮子和と北派旦角の代表である梅蘭芳のそれぞれの芸風を演じ、夏月珊、欧陽予倩の影響を受け、時装戯の公演にも参加した。
尚小雲(1899-1976)
本名は徳泉、字を綺霞。河北南宮人。
幼い頃に李際良が創立した三楽科班で学ぶ。名前を尚三錫として最初は武生を学んだが、のちに張zhi[くさかんむり+止]quan[くさかんむり+全]、載韵芳から旦を学ぶ。また、路三宝から花旦の芝居を学ぶ。陳徳霖の門下に入り、王瑶卿から指導を受けて、李寿山から昆劇の芝居を学ぶ。孫菊仙、楊小楼、余叔岩、譚小培、王又宸、馬連良らと共演を重ね、のちに自ら劇団も結成する。その芸風は武功に優れ、次男の尚長麟、楊栄環、孫栄惠などが受け継いでいる。また張君秋、劉元tong[丹+彡]、李世芳、李世来なども彼から指導を受けている。ほかに老生の徐栄奎、李甫春、馬長礼、武生の尚長春、孫瑞春、浄の景栄慶、尚長栄など、かつて主宰した栄春社でも多くの人材を輩出している。また戯曲学校では謝鋭青、鮑啓瑜、李翔などがいる。
荀慧生(1900-1968)
本名を秉彝、秉超、字を慧声、号を留香、芸名は白牡丹。河北東光県人。
幼い頃よりPang[广+龍]啓発から河北bang[木+邦]子の花旦を学び、八歳の時に天津で舞台に登る。1910年から北京に渡り、侯俊山(十三旦)から芝居を学ぶ。翌年三楽社科班に入り、薛蘭芬、路三宝から京劇の青衣と花旦を学ぶ。尚小雲と趙桐珊と三人合わせて「正楽三傑」と呼ばれた。のちに呉菱山、王瑶卿、陳徳霖に拝師。田桂風、曹心泉、喬惠蘭、程継先、李寿山、孫怡雲らから指導を受ける。1918年に喜群社に入り京劇を演じた。のちに自ら留香社を結成。陳墨香、陳水鐘らと新しい芝居を次々と創作していった。
于連泉(1900-1967)
本名を桂森、字を紹卿、芸名を筱翠花。原籍は山東登州、北京生まれ。
幼い頃に郭際湘(水仙花)が主催する鳴盛和科班に入り、名前を盛琴、芸名を小牡丹花としていた。のちに富連成科班の「連」字科に入り、芸名を筱翠花に変える。卒業後斌慶社で演じ、のちに自ら劇団を結成する。田桂風に拝師し、路三宝、余玉琴、侯俊山、王瑶卿からも学ぶ。特に花旦のQiao[足+喬](纏足)功に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした。弟子の毛世来、陳永玲がよくその芸を受け継いでいる。
趙桐珊(1901-1966)
名を久林、号を酔秋、芸名を芙蓉草。河北安次人。
幼い頃に三楽社科班に入り、bang[木+邦]子の花旦、のちに京劇の花旦を学ぶ。卒業後、春慶班、福慶班で公演をする。後に上海で王鴻寿、周信芳らと共演して人気が出てくる。王瑶卿の門下に入って田桂風から指導を受ける。多才なことで知られ、南通伶工学社、華東京劇実験学校、東北戯曲学校、中国戯曲学校で教鞭をとり、人材の育成に多大な貢献をした。
程硯秋(1904-1958)
本名を承麟、最初の頃の芸名を程菊衣、のちに艶秋、1932年から硯秋にする。字を御霜。北京生まれ。
六歳の時に栄蝶仙に拝師して武生を学ぶ。後に陳桐雲から花旦、陳嘯雲から青衣を学ぶ。十一歳の時に初舞台を踏む。孫菊仙、劉鴻声と共演し好評を得る。声変わりの後、閻嵐秋(九陣風)、喬惠蘭、謝昆泉、張雲卿らから指導を受ける。また、梅蘭芳に拝師し、さらに王瑶卿からも指導を受ける。高慶奎、余叔岩らと共演して名声を高め、しばらく自ら劇団を結成することなく北京、上海で公演を重ねた。レパートリーは豊富で、唱中心の青衣から台詞中心の花旦、動きが中心の刀馬旦の芝居のほかに昆劇も芝居も演じた。羅ying[やまいだれ+嬰]公、金仲sun[くさかんむり+孫]、翁偶虹らインテリの協力の下、多くの芝居を手がけた。程派の唱は特徴があり、演技も実に細かい。荀令香、陳麗芳、王吟秋、趙栄chen、李世済、新艶秋などがいる。
張君秋(1920-1997)
本名を滕家鴻。租籍は江蘇丹徒。北京人。母・張秀琴は河北bang[木+邦]子の青衣。
十三歳の時に李凌楓に拝師。青衣の居を学ぶ。王瑶卿の影響を強く受け、のちに尚小雲、梅蘭芳に拝師。1942年に謙和社を組織して主演をつとめる。中華人民共和国成立後、北京京劇団に参加し、馬連良、譚富英、裘盛戎らと共演する。四大名旦たちの唱い方に自らのノドの良さを融合させた芸風を確立した。弟子は全国各地に数多くいる。
