北京

 

京劇名人俳優/老生

 

程長庚(1811-1880)

本名を椿、字を玉山、一説に玉珊。安徽潜山人。父・程祥桂は清・道光年間の三慶班の責任者。
幼い頃から三慶班で学び、道光二年(1822)父と共に北京に来る。「文昭関」、「戦長沙」などの公演で頭角をあらわし、のちに三慶班の看板役者になる。道光から咸豊年間に三慶班を任され、精忠廟(俳優の労働組合)の廟首(組合長)として、三慶、春台、四喜の三つの班の総管理人となる。実直な人柄を慕われ、同業者からも尊敬されていた。晩年は人材育成に力を入れ、陳徳霖、銭金福、張淇林などを排出した。楊月楼、譚xin鑫培、汪桂芬、孫菊仙などが弟子にあたる。孫の程継先は小生。

 

張二奎(1814-1860)

本名を士元、字は子英。原籍は河北衡水。一説では安徽、または浙江人。
清・道光年間の時に工部都水司経承したが、芝居が好きで票友として和春班で客演する。二十四歳のときに役者となって正式に入団。のちに四喜班に入って看板役者となる。王帽戯(帝王が主役の芝居)を得意とし、武生の芝居も演じた。咸豊年間に大奎官(劉万義)とともに結成した双奎班ではシリーズ物を手がけた。弟子には楊月楼、汪菊芬などがいる。

 

余三勝(1802-1866)

本名を開龍、字を啓雲。湖北羅田人。
もともとは湖北漢調の役者であったが、清・道光年間初めのころに北京に渡る。春台班の主演となり、同治二年(1863)広和成班に入団。漢調を基礎として徽調、昆劇、bang[木+邦]子腔を融合し、湖北音をメインにしたうたい方で、当時は「漢派」または「余派」と呼ばれた。息子の余紫雲は旦、孫の余叔岩は老生。

 

譚鑫培(1847-1917)

本名を金福、字をxin鑫培。原籍は湖北江夏。老旦を演じていた父・譚志道は「叫天」と呼ばれていたことから「小叫天」とも呼ばれた。
幼い頃に金奎科班で老生を学び、のちに永勝班に入る。変声期の頃に武生に変えて北方で活躍。北京に戻ってきてからは三慶班に入団。立ち回りの芝居で頭角をあらわし、座長の程長庚に目を掛けられる。変声期を経てノドが安定した後、老生の芝居を再び演じる。程長庚の弟子である一方、多方面に渡る秀でた才能から余三勝、王九齢、張勝奎などからも芝居を学んだ。継承者には劉春喜、賈洪林、貴俊卿、余叔岩、息子の譚小培、娘婿の王又宸などがいる。「伶界大王」と呼ばれ、「譚派を学ばない生は無い」と言われるほど京劇界に強い影響を与えた。

 

汪桂芬(1860-1906)

名を謙、字を艶秋、号を美仙、小名を恵成。湖北漢川人。
幼い頃は老旦を学び、声変わりの後に樊景泰の門下で楽器を学ぶ。清・光緒六年(1880)、ノドが回復してから春台班に入って好評を博し、程長庚の再来と褒め称えられた。師である程長庚の芸風をもととして、「汪派」の芸風を確立した。王風卿がその芸風を継いでいる。

 

孫菊仙(1841-1931)

名を濂、字を宝臣。天津人。
武芸に優れ、清の軍隊に所属していた。票友として金声茶園で客演を行っていた。三十六歳のとき、程長庚に弟子入りし、俳優となる。崇祝成、三慶、四喜、天慶班などさまざまな劇団で活躍する。1885年に王九齢の死後、四喜班の主任を引き継ぎ、翌年には昇平署へ選出される。天津では”老郷親”といわれ、名を成した後プログラムでもその名を使われるようになり、芸名となった。若手を熱心に起用して馮子和、尚小雲などがよく教えを受けた。双闊亭、時慧宝は孫派をよく受け継ぎ、劉鴻声、周信芳、高慶奎、馬連良などが影響を受けた。

 

王鴻寿(1850-1925)

芸名を三麻子。江蘇人。
幼い頃は家で昆劇の武丑と徽劇の靠把老生を学ぶ。青年のとき、「太平天国の乱」では反乱軍の劇団に属す。反乱終息後は江南の地方劇団で公演をする。清・同治十年前後、上海で慶楽、天仙、天楽、丹桂などの茶園で公演をする。1908年には北方へ行き、天津、北京で関羽の芝居を演じて、独特の関羽像を創った。周信芳、李洪春、林樹森、劉奎官などが弟子にいる。夏月潤、李吉来、唐韵笙などが演じる関羽は強い影響を受けた。

 

汪笑儂(1858-1918)

本名を徳克金、又はchuan[人+舜]。字を潤田、舜人、号を仰天。満族。北京生まれ。
光緒五年(1879)に科挙に合格。翠峰庵票房で芝居を学ぶ。孫菊仙の指導を受けて、後に長期滞在した上海で公演をする。辛亥革命の後、天津で正楽育化会副会長及び戯劇改良社社長となる。1916年再び上海に赴き、貧困の中で病逝する。

 

劉鴻声(1879-1921)

鴻昇、鴻生ともいい、字を子余、号を澤宝。北京順義県人。
京劇が好きで後に翠峰庵票房で「浄」を学ぶ。1895年に俳優となり、同春、四喜班で譚鑫培、孫菊仙と共演する。玉成班に入ってからは主演をつとめて評判を得る。1909年に上海へ渡り、老生を演じるようになる。辛亥革命の後、北京に戻って広和楼で鴻慶班を結成し、自らが主演を務める。名を成した後も浄や老旦の芝居を演じた。

 

余叔岩(1890-1943)

名を第祺、湖北羅田人。余三勝の孫、余紫雲の息子。
少年時代は「小小余三勝」の芸名で天津で公演し、頭角をあらわす。後に病気と声変わりのために北京に戻って、妻の父・陳徳霖の援助を受けて、銭金福、王長林などから立ち回りの芝居、姚増禄から昆劇の芝居を学ぶ。また、陳彦衡、愛新覚羅溥dong[人+同](紅豆館主)、王君直などから譚派の唱腔を学び、後に春陽友会に入って樊棣生、世哲生、鉄林甫などと芸を磨く。後に譚鑫培に拝師。1916年にノドが回復してから梅蘭芳の劇団の公演で舞台に復帰。1917年に譚鑫培が去った後、フリーとなる。譚鑫培の芸風を基礎に自らの芸風を確立し、「新譚派」または「余派」と呼ばれるようになる。弟子に楊宝忠、譚富英、王少楼、孟小冬、李少春などがいる。妻の弟・陳少霖も彼に学んだ。

 

高慶奎(1890-1940)

名を鎮山、字を子君。原籍は山西楡次、北京生まれ。清末に丑を演じていた高四保の息子。
幼い頃に祥慶和科班に入り、賈麗川(賈洪林の叔父)から老生を学ぶ。十二歳のときに初舞台を踏む。1919年梅蘭芳に随って日本公演に行く。1921年慶興班を結成し、侯喜瑞、Hao[赤+おおざと]寿臣らと共演する。最初の頃は譚派、後に劉鴻声に学ぶ。甲高く激しいうたうその芸風を「高派」と呼ばれるようになる。四十六歳のときにノドを壊してから人材育成に力を入れた。弟子には白家麟、李和曾、李盛藻、息子の高盛麟がいる。

 

言菊朋(1890-1942)

本名を錫、号を延寿、蒙古族。北京人。
幼い頃から京劇の老生が好きで、もともとは「譚派」の票友であったが、譚鑫培と共演した王瑶卿、銭金福、王長林、鮑吉祥らと交流し、譚派を学ぶ。さらに陳彦衡、愛新覚羅溥dong[人+同](紅豆館主)から指導を受ける。1916年前後に言楽社、春陽友会で公演をして評判になる。1923年、梅蘭芳に随って上海で公演をし、俳優となる。二十年代後半からフリーになり、譚派を基礎として自らの芸風「言派」を確立する。

 

周信芳(1895-1975)

字を士楚、芸名を麒麟童。浙江慈渓人。江蘇省清江浦に生まれる。
六歳の時に青衣を演じる父・周慰堂(芸名を金琴仙)に随って杭州を旅して陳長興から学ぶ。七歳のときに初舞台を踏む。そのときの芸名が「七齢童」。1906年からは王鴻声に随って漢口へ公演に行く。1907年には上海で「麒麟童」と名を変える。1908年には北京の喜連成科班に入り、梅蘭芳、林樹森、高百歳と共演する。1912年に上海に戻り、新舞台などの劇場で譚鑫培、李吉瑞、金秀山、馮子和らと共演し、薫陶を受ける。上海で公演を重ねる一方、北京・天津でも公演をし、その個性的な芸風から「麒派」と呼ばれるようになる。新しい芝居を意欲的に次々と創作していった。

 

馬連良(1901-1966)

字は温如。回族。北京人。
九歳のときに北京の喜連成科班に入り、葉春善、蕭長華、蔡栄貴、茄莱卿などから学ぶ。最初に武生、後に老生を学ぶ。二十三歳の時に自ら劇団を結成し、銭金福、王長林の協力を得て看板役者としての地位を確立する。譚鑫培、孫菊仙、劉景然、特に賈洪林から演技指導を受け、余(叔岩)派芸術の長所を吸収し、自らの条件と経験から彼独特の「馬派」の芸風を生んだ。二十年代から六十年代に衰えることなく人気を博した。脚本や演技の改良、研究のほかに舞台衣装や舞台道具など芝居全体に渡って創意工夫を試みた。弟子、門下生は南北各地に数多くいる。

 

譚富英(1906-1977)

名を豫昇。譚鑫培の孫、譚小培の息子。
十二歳の時に富連成科班に入り、葉春善、蔡栄貴、雷喜福などから指導を受ける。1923年に卒業後、碧雲霞、雪艶琴、荀慧生、筱翠花(于連泉)、尚小雲らと共演する。1934年からは自らが主演として劇団を結成。1949年には裘盛戎と太平劇社をつくり、後に北京京劇団と名を変えて馬連良、張君秋、趙燕侠などが続々と参加する。1950年代から60年代にかけて高宝賢、孫岳、李崇善が門下に入る。息子の譚元寿は富連成社科班で先に武生、後に老生を学んでいる。

 

孟小冬(1907-1977)

本名を若蘭、字を令輝。北京人。祖父は文武老生兼武浄の孟七、父・孟鴻群、叔父・孟鴻栄(小孟七)は文武老生。
家庭から受けた影響で幼い頃から舞台に立ち、九歳のときに仇月祥から孫(菊仙)派老生を学ぶ。また、陳秀華に拝師、譚派老生を学ぶ。後に余叔岩に拝師。余叔岩から直接教えを受けてその芸風を最もよく受け継いでいる女性。

 

楊宝森(1909-1958)

字を鐘秀。原籍は安徽合肥。曽祖父・楊貴慶は刀馬旦。祖父・楊桂雲は花旦、父・楊孝方は武生兼浄。叔父の楊孝亭は花旦、従兄弟の楊宝忠は琴師。
陳秀華、鮑吉祥に拝師。余(叔岩)派を学ぶ。 慶社科班に入る。卒業後、筱翠花(于連泉)、程硯秋、荀慧生らと共演する。声変わりによって以前あった長所を失ったために研究を重ねて自らの芸風である「楊派」を確立する。継承者として程正泰、馬長礼、梁慶雲、朱雲鵬、李鳴盛などがいる。

 

奚嘯伯(1910-1977)

満族。北京生まれ。
幼い時から京劇が好きで、言菊朋に拝師。譚(鑫培)派を学ぶ。のちに余叔岩からも学び、高慶奎、時慧宝、王風卿らの長所を吸収する。二十二歳のとき、天津で尚和玉の玉成班に入って俳優となる。1933年からは楊小楼、尚小雲、馬徳成、雪艶琴、新艶秋、章遏雲、李香匀らと共演する。1935年からは自ら劇団を結成し、春和戯院で公演をする。翌年、梅蘭芳と天津・中国大戯院で共演する。彼の芸風はのちに「奚派」と呼ばれるようになる。

 

李少春(1919-1975)

河北覇県人。父・李桂春は南派を代表する俳優。
幼い頃父に従って上海へ渡り、十一歳の時に余(叔岩)派の陳秀華から老生の芝居を学ぶ。また、楊(小楼)派の丁永利から武生の芝居を学ぶ。後に余叔岩に拝師。文武ともに優れ、新しい芝居にも挑戦していった今でも人気の高い俳優である。

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