明の十三陵/十三陵の由来
明代洪武31年(1398年)、明の太祖-朱元璋が亡くなり、皇太孫の朱允文が皇位を継い、年号は「建文」、すなわち明の恵帝である。藩王(諸侯の王)の勢いが絶大であった当時、建文帝は朝廷の安全を守るために、藩の勢力を弱めようとする政策を取った。それは、藩王たちの利益を犯した。ちょうどその時、大軍を率いて帝位を奪い取ろうとしていた朱元璋の四子、燕王-朱棣は「建文帝の政策に同意できぬ」と、それを口実に兵を起こし、都城-南京を攻めはじめた。四年の戦いを経て、朱棣は建文帝の帝位を奪い、明の成祖-永楽帝となった。
朱棣は、卓越した政治的能力をもつ皇帝だった。皇帝となった後、すぐに翰林院(唐代からある官署で、国史の編修、経書の進講などをつかさどった役所)の学士-解縉に命じて3000人あまりを集め、2万2877巻の大著『永楽大典』を編纂させた。永楽2年(1404年)から永楽18年(1420年)、大量の労働力をもちいて、北京の宮殿(紫禁城)を建設し、その城壁を改築した。永楽19年(1421年)には、正式に北京に遷都し、北京はこの時から中国の政治、経済、文化、軍事の中心になったのである。さらに、永楽3年(1405年)から永楽22年(1424年)、太監(宦官)の鄭和に命じ、膨大な数の船隊を率いて、アジア・アフリカ30数カ国を探訪させた。いわゆる鄭和の「大航海」だが、それによって明王朝と諸外国との文化・経済交流を促進したのである。
北京に遷都する前、永楽帝は永楽7年(1409年)、北京の近くに陵墓の場所を選ぶため人員を派遣、天寿山麓に自らの陵墓となる「長陵」の工事を始めた。
明代276年間には、16人の皇帝がいた。太祖の朱元璋が南京に葬られ、恵帝-朱允文のゆくえが知れず、代宗-朱祁[金玉]が北京の金山に葬られたほかは、13人の皇帝がこの天寿山に埋葬された。
十三陵は、成祖-永楽帝の長陵を中心として、その他12の陵墓が東西の両翼に点在している。陵墓の規模はそれぞれ異なり、その中からは主人の生存期の歴史的背景や暮らしぶり、性格などがうかがえる。
長陵の主人は明代の全盛期をつくり上げた。その陵墓は、中でも最大規模である。「献陵」「景陵」の主人は、かつて朱棣とともに南征北戦をした子孫で、天下取りの苦労を十分に味わっている。陵墓はわりと簡素である。「昭陵」「徳陵」は、主人の死後にようやく建てられたものだ。「慶陵」「思陵」は他人の陵墓を利用して皇帝を葬ったため、その規模には限りがあった。ほかの六つは、いずれも宮殿に長く住まい、贅沢に溺れた皇帝たちの陵墓である。
